夏色綿飴

fiction, Jul. 2019

SAKI.S

「こんなたくさんのスパイスが揃った棚のある家に、住みたいなあ」

彼のことを思い出すとき、私が真っ先に思い出す言葉だ。それ自体に特に意味はないし、そのとき自分がなんて答えたのかも、思い出せないのに。

夜が迫ってくる窓の縁を横目に、その日私たちは初めてキスをした。それはキスとは呼べないくらいの、唇と唇が一瞬触れ合うくらいのものだった。目を開けると彼はすでに私のことを見ていて、こう言った。

「今度の花火大会、一緒に行く?」

考える前より先に、私はさっきのキスと同じくらいのさりげなさで、頷いた。

それからの2週間、私はとても忙しかった。受験勉強の傍ら、お年玉を崩して浴衣を買った。白地にピンクの花柄という王道のデザインのものを。

母に着付けを手伝ってもらうと「誰と行くの?」と聞かれるのは目に見えているので、帯の形がすでにできあがっているものを買った。

夏祭りデートでおすすめの屋台フードをググった。焼きそばは青のりが歯につく恐れあり、あんず飴はいかにもすぎる。

浴衣に似合う髪型もググって、定番のお団子ヘアにしようと決めた。

当日の待ち合わせは5時半だった。私は午後中、準備に追われていた。着物用の白い下着ワンピはおばあちゃんが着る肌着みたいでダサいけれど、着れば確かに下着が透けなかった。

着物はブラジャーを着けずに着ることは知っていたけれど、落ち着かないし浴衣だし、と思ってつけたままにしておいた。左が前か右が前か、いつもわからなくなる。ゴムベルトで留めるのはできたけれど、裾上げがうまくできない。あげすぎるとダサいし、長すぎると歩きづらい。

裾上げした部分をきれいに帯の下から出すのに、何回も帯を巻き直す。

やっとこさ着れたときには、すでに汗だくになっていた。

母に詮索されないように、静かに階段を降りて「行ってきます」と同時に玄関のドアを開けた。彼との待ち合わせは駅だった。駆け足に通り過ぎる私の視界の隅っこに、すでに浴衣を着た人たちの姿が映る。

電車は思ったより混んでおらず、席は空いていたけれど、帯が潰れるのがいやで私は座らなかった。

駅を降りて会場へと向かう。人が多いのと、これから上がる花火よりも眩しく光る屋台の数々で足元がよく見えない。

彼は何か食べようと言った。私は「何がいいかな」を繰り返すばかりで、過ぎ去った屋台の数ばかり数えていた。ググりすぎて、彼との夏祭りデートで食べるべきものがわからなくなっていた。

結局、屋台が連なった通りの最後にある、綿あめを選んだ。綿あめ機の前で待っている男の子の後ろに彼は並んで、夏の空のような色鮮やかな綿あめを私に手渡してくれた。

一口、二口食べたあと、私は「食べる?」と言って、綿あめを彼の方に傾けた。そのまま顔を近づけてほしかったような気がしたけれど、彼は左手の親指と人差し指でひょい、とつまんで口に入れた。そしてその指を甚平の裾で二、三回拭いた。

その一連の仕草が、私たちの花火大会のフィナーレとなった。

ぽつぽつ、という雨がやがてざーっという音を立て始めた。屋台の電気は消え始め、「打ち上げは中止です」というアナウンスが流れた。

傘を持ってないカップルや家族が走りながら駅へと向かう。濡れながらみんなどこか、花火を待っていたときよりも楽しそうだった。

私は浴衣に不釣り合いな大きな手提げ袋から、傘を二本取り出した。母がいつも二本持ち歩いているので、その癖が移ったのだ。もちろん一本は彼に渡した。相合傘をするでもなく、手をつなぐわけでもなく、私たちは黙って駅へと向かった。

綿あめを持ちながら傘を持つのは難しかったので、途中にあったゴミ箱に捨てた。ゴミ箱は焼きそばの残りやたこ焼きのソースがついたプラスチック皿、ラムネの空き瓶なんかで溢れかえっていた。

二学期に入って、私たちはどちらからともなく連絡を取らなくなった。クラスメイトには内緒にしていたし、学校では話さないようにしていたので、私と彼以外誰も、別れの事実に気づかなかった。

何より、私たちは受験に忙しかった。私たちの恋は結局、打ち上がらなかったのだ。

あのとき、もし花火が上がってたら、とは不思議と思わない。綿あめをちぎった指を甚平で無造作に拭いた彼を私は見ていたし、彼は彼で、傘を二本持ってきた私を、綿あめをゴミ箱に捨てた私を見ていた。

恋はささいなことで終わる。

でも同時に、ささいなことを残してゆく。

スパイスでぎっしり詰まったキッチンの棚や、夜がゆっくりと迫り来る窓の縁や、ネットの海へと放り出されたグーグルの検索履歴や、着付けのあとに額を伝った汗の一粒なんかを。

きれいでも甘酸っぱくでもロマンチックでもない。

でも、50年経った今振り返ると、そのひとつひとつが、とても美しい。

初恋というラベルを貼って、私はその瓶をスパイスの棚の端に、そっと置いた。

written by

SAKI.S

生まれたときから足に筋肉の筋が入っており将来はオリンピック選手かと渇望される。 小5のとき徒競走"Queen of the Queen"で優勝し、見事井の中の蛙と化す。 現在、自宅と実家の往復(400m)のみでその筋肉を使い、”猫に小判、Queenに筋(KIN)”と揶揄される。好きな食べ物はクッキー。

mono.coto Japan編集長/泊まれる自宅本屋 books1016。兵庫県加古川市出身、小中高を中国、アメリカなどで過ごす。
twitter: @monocoto_japan

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