色づく季節に

fiction, Nov. 2019

KINA

「もし上野公園でデートをするときは、不忍池にはいっちゃだめだからね」と母に言われた。曰く、カップルで上野公園の不忍池に行くと別れてしまうらしい。

不忍池の前には弁天堂があり、女神である弁財天がラブラブなカップルに嫉妬して別れさせてしまうのだ、という理由を知ったのは、もっと大人になってからのことだった。

まだ私がうら若かった初デートの日、電車に揺られて上野公園に向かう車窓から、景色が段々と夜に向かって暗くなっていくのが見えた。何本もの電線と並行して走る列車の窓の隙間から、朱と紺とが混じり合う瞬間を捉える。列車が上野駅にたどり着くと、星が一つ二つ瞬く夜の中に私は立っていた。こんな遅い時間に異性に呼び出されるのは、初めてだった。

初夏の日曜午後6時の上野駅には、東京とは思えないほど人がいなかった。ぽつぽつと人が駅に吸い込まれていくくらいだ。人の流れに逆らうように公園に向かって歩いていくと、自分の鼓動がこめかみに響くのがわかった。喫茶店に入って待つなんて発想もない私はただ、夕暮れの生暖かい風に吹かれながらその人のことを待っていた。

彼が訪れる頃には、上野公園にはちょうちんの明かりが灯っており、湿気を帯びた重たい風がそよいでいた。待ち合わせ時刻から1時間が過ぎていた。

私の顔もあまり確認しないまま、彼は木々の生い茂る夜の上野公園を、ずんずんと奥へ歩いていく。慣れないハイヒールをうまく扱うことのできない私はついていくのに必死で、何も言えないままその背中を追った。

彼は憎たらしいほど歩くのが速い。私から逃げているようにも感じられ、「私がもしここで止まってしまっても、気づかずにそのまま歩いて進んでいってしまうだろうな」という思いが脳裏をよぎる。すると彼は、察したようにこちらを振り返ったので驚いた。暗がりで表情なんてわからないが、後ろをついてくる私を認め、また歩き出した。

石段を下った先にあるベンチに小さなリュックを置いて、彼は座った。何も言えないまま、隣に座り、私もまた何も言わなかった。目の前には池がある。

「この池って……?」

「不忍池」

しまった、と思った。

ジンクス通り私は弁天様の怒りを買ったのか、この恋は散ることとなった。

彼と破局したあとも、彼と別れた後も私は人並みに恋をし、お付き合いを経て別れ、また別の誰かに恋をした。繰り返される出会いと別れは、やがてあの日の上野公園でのことを過去に追いやり、夢だったのか現実だったのかさえ、曖昧にさせていくのだった。

それでもなお、「特別な場所」として避け続けていた上野駅に、この度ひとりで出かけようと思ったのは、あれからもう、10年越しのことである。

もうかかとの高い靴でもつまずくことはない。自分の軽い足取りにかえって戸惑いながら、これまでの月日を踏みしめるように、上野駅の公園口から入り不忍池方面へ向かう。

「こんなに紅葉するんだ」

上野公園に入った私を待っていたのは、色鮮やかな紅葉だった。イチョウが黄色く色づいた美しい葉を茂らせていた。たしかに、冴える黄色に色づくイチョウも、季節が違えば他の植物と同じ緑色をしていてよくわからない。あの日、彼と来た日は夏の夜だったから、気づかなくても当然だ。

地面に落ちるイチョウの葉をつまみ上げると、うっすらと筋が見えた。すっかり乾いてしまっていた記憶が、水を得て潤いを取り戻したかのように蘇ってくる。

彼の手が大きかったこと。その手が掴んでいたタバコが、指の間で暗がりに赤く灯っていたこと。彼の指が私まで伸びて、頬にほんの少しだけ触れたこと。それから──。

そびえ立つイチョウの木がさわさわと揺れる。鮮明な映像が脳裏を巡っても、もう心は彼を想って泣けないことに気づいて、少し悲しかった。

薄明かりに細い月が、遠くから私を眺めていた。かすかなほの白い月明かりに向かって、今なら彼になんて伝えるだろうと言葉を探すが、うまくつかみそこねてはすぐに消えていく。

熱のこもった私の頬を、あの日とは違う乾いた冷たい風がわずかに撫でて、かすめ去っていった。

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KINA

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