待ち合わせはあの夜に

fiction, Sep. 2019

SAKI.S

蝉の音が、耳をついて離れてくれない──。

圧縮袋に入れられて、すっかりしょぼくれている風情のふとんのように、コンクリートに埋められた街を歩いている。だから蝉なんていないだろう──そんな自分の考えが甘かったことは、入学して最初の夏に知った。

特にキャンパスまわりは、幸か不幸か緑が多いので、その分蝉の鳴き声も耳につく。

そんな声に追い立てられるように、まわりは一斉にリクルートスーツに着替え始めた。衣替えが終わっていない学生は少数派で、まるで自分が少数民族の末裔になったみたいだわ、と美奈子は思う。

夏のキャンパスは、どこもかしこも蝉とリクルートスーツに埋め尽くされていた。

蝉の鳴き声が、耳をついて離れない──。

学生証をカードリーダーにスキャンして、図書館へと入る。一旦入ってしまえば、蝉の鳴き声もリクルートスーツも目に入らない。1階のカウンターには脇目も振らず、美奈子はまっすぐその横の階段を駆け下りた。地下1階、地下2階、地下3階──階段を一歩降りるごとに人の気配は薄くなり、代わりに紙の匂いが濃くなってくる。美奈子は匂いで、その本のだいたいの出版年がわかってしまう。

地下3階まで来てしまえば人の気配はすっかりなくなり、古い紙の匂いで満たされる。美奈子は深く息を吸い、その匂いを心ゆくまで楽しんだ。深海魚が浅瀬の魚と戯れたあと、やっと住処に帰ってきたときのように。

AEの367。サの棚。だいたいの場所にあたりをつけてから、その棚の本を左上から右下までざっと目で追っていく。目的の本は分厚い単行本に挟まれて、ひっそりと息を潜めていた。フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲『たくらみと恋』。岩波文庫のページは原型を留めていないほどに茶色く変色し、今にも地面に落ちそうだ。

学科に入ったときに一度さらっと読んだけれど、すっかり内容を忘れていたので再読しないといけない。ぱらぱらとページをめくっていたら、ひらりと紙が舞い落ちた。一瞬、「やば、本がばらけちゃったかな」と思ったけれど、それが間違いだということはすぐにわかった。茶色いページに対し、その紙はあまりに真っ白だった。

よいしょ、としゃがんでその紙切れを拾う。図書館の本には、思いも寄らないものが挟まっていることがある。ノートの切れ端、出席カード、コンビニのレシートあたりが多いけれど、一度なんかは給与明細が挟まれていて、思わずじっくりと手に取ってしまった。

さて、今回は何が挟まっているのだろうと見てみると、それはノートの端を破いたメモで、鉛筆で「今夜6時、時計台の下で」と書かれていた。はね・はらいがしっかりと後を残している端正な字で、今まで見たどんな字とも違って、美奈子は思わずまじまじと見つめてしまう。メモの紙は真新しいのに、その字はどことなく時代を感じさせた。

時計台と言えば、とふと思い出す。北門から出て坂を登った突き当たりに、O緑地公園があって、そこに時計台があったのだった。白い時計に黒の数字という、セイコーのどこにでもある時計台だけれど、美奈子はたまにキャンパスを抜け出してそこでお弁当を広げているから、見知った顔になっていたのだ。

こんや、ろくじ。ということは、あと2時間ちょっとか──そう考えて、美奈子はふと我に帰る。こんな、いつ挟まれたかもわからない、誰宛てなのかもわからないメモ用紙を真に受けているなんて、どうかしている。真夏の暑さと蝉の鳴き声にやられたのかもしれない。

きっと、その人もそうしていたであろうように、美奈子はメモをページに適当に挟んで、ひとまず栞がわりにすることにした。閲覧席を探して、『たくらみと恋』のページを開く。

ふと気づくと、閉館のアナウンスと蛍の光が流れていた。今日は木曜日だから、図書館は6時までしか使えない。慌てて美奈子は口元をぬぐい、羽織っていたカーデを脱いで左手にかけ、右手で椅子を仕舞って『たくらみと恋』を手に取った。貸りるのは面倒だから読んでしまおうと思っていたのに、すっかり寝てしまっていたようだ。

仕方なく貸し出しカウンターに並ぶ。閉館間際は混んでいる。並んでいるあいだに美奈子はふと、ページをくってメモ用紙をそのなかから抜き取った。「貸し出し期間は二週間です」という、もう何十回と繰り返された台詞を耳が聞きながら、美奈子はO緑地公園の時計台について考えていた。図書館から歩いていけば、時計台の下に着くのはちょうど6時くらいだった。

ちょうど5限目が終わる時刻だからか、校舎のなかからはどっと人が溢れ出てきていた。

「晩飯どこ行く?」
「D社のインターン、お前行くんだって?」
「ねーU先生の課題やったあ?」
「ごめん私これからバイトだから急ぐね。」

聞き取れる全部の音が、耳に飛び込んでくる。そんな音を避けるように。美奈子は北門へと向かっていた。この門は駅と反対側にあるからか、利用者は少ない。守衛さんにお疲れ様、と言われて小さく会釈を返し、学校を出る。空は端っこの方から少しずつ夜支度を始めていた。O緑地公園が見えてくる。スマホをつけると5時54分。あと6分で6時だ。

なんてね、と思いながらも、美奈子はセイコーの時計台のそばに寄り、その柱に寄りかかった。LINEを開くけれど新着は入っていない。インスタにはいいねが5個ついていた。ツイッターではワンオペ育児についてのバズったツイートが流れてきた。

6時になった。変わったのはスマホ上の時計とセイコーの文字盤と空の片隅だけだ。美奈子はポールを離れ、時計台に一番近いベンチに腰掛けた。スマホをかばんに戻して『たくらみと恋』を取り出す。

暗くなるまで読書もいいかも、と思っていたはなから、文字が読みづらくなってきた。そろそろ帰るか、と目を上げると、さっきまでは見なかった人影を見つけた。時計台の煌々とした安っぽい光に照らされて、白髪が鈍く光っている。灰色と緑色の中間のような色の着物が、ぼんやりと浮かび上がってくる。

麻の着物だろうか。遠目に見ても涼しげで、白髪によく似合っていた。

こちらの視線に気づいたのか、その「老婦人」と呼ぶにふさわしい女性はこちらに顔を上げた。にこ、と笑ったかのように思えたその顔は、だんだんとこちらに近づいてくる。人の良さそうな顔だったので、美奈子も表情を和らげて、立ち上がった。

「どなたかと待ち合わせなの?」

一瞬美奈子はためらったが、

「ええ、まあ…」

とだけ答えた。こういうときに気の利いたことが言えればいいんだけれど、といつも言ったあとに後悔する。でもその女性は、こちらにおかまいなく話を続けた。

「私も待ち合わせなの。といっても会えた試しはないんだけどねえ。ほら、今の子たちみたいに電話持ってるわけじゃないから。だからね、待ち合わせ。

あなたみたいな若い人たちは、待ち合わせなんてしなくていいんじゃないの?」

「ええ、でもみんな、待ったり待たせたりしますよ」

「そうなの。でもねえ、私はもう60年待っているのよ。夜が始まる空の縁から、現れるはずのその人を。

電話が通じればいんだけど。でもね、そのときは電話もなかったし、約束を交わした紙も、どこかの時空の弾みで落ちてしまったから」

「時空の、弾み…」

「なんてね。たぶん、そんな紙切れ、とっくのとうにどこかに落としちゃったんでしょうね。

暗くなってきたから、もうあなたも帰らないと」

そう言って老婦人は公園の出口の方に向かい始めた。つられて私も本を仕舞い、歩き出す。

「いつもここで待ってるんですか?」

「そうねえ、いつもって訳じゃないけれど。この着物を着た、真夏の夜はね、その人を待ちたくなるの。たぶん、その人に会えることより、待ってる時間そのものが、いつの間にか心地よくなっちゃったんでしょうね。

「待ってる時間、そのもの…」

「積極的に待つ、っていうのも、悪くないわよ、きっと」

何て返事をしたらいいかわからなくて、私は黙り込んでしまった。そうこうしているうちに出口に着き、老婦人は「じゃあ、私はこれで」と言って頭を下げ、坂の上の夜の闇へと消えていった。私は坂を下る間中、彼女の最後の言葉を心の中で反芻していた。

***

その後、彼女に会うことはなかった。最初の一週間は毎日午後6時にO緑地公園に向かった。次の週からは毎週木曜の同じ時間に行った。けれど、彼女のあの着物姿を目にすることは叶わなかった。そうこうしているうちに真夏は終わり、秋が来て、冬が終わると同時に私は4年生になった。就活はしてみたけれどうまくいかないまま、また蝉の鳴き声と、今度はひとつ下の学年の子のリクルートスーツに囲まれた。

でも美奈子はなぜか、去年のような「あの、どこかへと行ってしまいたい感じ」は抱いていなかった。「積極的に待つ」というのを何度も反芻するうちに、気づいたら自分の言葉になっていて、美奈子は就活を続けつつも、卒論とバイトで始めた翻訳会社の日独翻訳に取り組んでいた。

蝉の鳴き声が終わるころには、気づいたら、その鳴き声を惜しむほどにすらなっていた。

10年後、美奈子は久しぶりにキャンパスを訪れる。仕事のミーティングが大学近くのカフェだったので、せっかくだから足を伸ばしてみたのだ。セミの鳴き声が懐かしく感じられたが、リクルートスーツはどこにも見受けられなかった。

結局美奈子の就活はうまくいかなかった。でも卒業後も翻訳の仕事を続けるうち、そこで正規の翻訳者となり、今では多くの技術翻訳を地元にいながら引き受けるようになっていた。東京にはこうして、月1回ほど打ち合わせのために訪れている。

キャンパスをぐるっと一巡りしたあと、美奈子は北門から出た。坂道、こんなにきつかったっけ、とびっくりする。O緑地公園の入り口と、その時計台はあのころとまったく変わっていなかった。

夜の気配を感じながら、美奈子は時計台の下のベンチに腰掛けた。どうやら、移動の疲れが出たのか少しうとうとしてしまったらしい。ふと顔を上げると、少し離れた向かいのベンチに人が座っていた。風貌からすると、そこの学生さんらしい。あのころの美奈子と同じように、図書館で借りてきたであろう古めかしい本を広げていた。

美奈子はゆっくり立ち上がり、彼女の方へと向かっていく。彼女がこちらの気配に気づき、顔を上げる。美奈子はにこっとほほえみ、こう言った。

「あなたも、誰かと待ち合わせ?」

written by

SAKI.S

生まれたときから足に筋肉の筋が入っており将来はオリンピック選手かと渇望される。 小5のとき徒競走"Queen of the Queen"で優勝し、見事井の中の蛙と化す。 現在、自宅と実家の往復(400m)のみでその筋肉を使い、”猫に小判、Queenに筋(KIN)”と揶揄される。好きな食べ物はクッキー。

mono.coto Japan編集長/泊まれる自宅本屋 books1016。兵庫県加古川市出身、小中高を中国、アメリカなどで過ごす。
twitter: @monocoto_japan

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