学校に、海がある。

fiction, Sep. 2019

萩原郁実

学校に、海がある。

雨の日も曇りの日も、その海は青い。ぼんやり沈みながら見上げた世界は、音もなく、そしてキラキラと輝いていた。

校庭の横にある真っ青なプールは、端から端まで25メートル。低学年や泳ぎが苦手な人向けの浅いプールと、高学年向けの深いプールのふたつがある。深い方は青と黄色の浮きで、5つのレーンに分けられている。

たった25メートルだ。走れば5秒もたたずにゴールへ着ける。けれど水の中では5秒かけても、10秒かけても、なかなか進むことが出来ない。途中で力尽き、泳ぐのをやめてしまうことだってある。

この25メートルを泳ぎきった者だけが、白い水泳帽子を手に入れることができた。一方、泳げない者は真っ赤な帽子を被らなければならなかった。それは青いプールの上から誰が見ても「アイツが泳げないのだ」とひと目で分かる目印で、僕は小学4年生になるまで、その赤い帽子を被っていた。

僕はずっと泳げなかった。水が大嫌いだったのである。母が言うには、どうやら小さいころに風呂で溺れかけたことがあるらしい。そのときのことは覚えていないけど、ひどいときはシャワーを浴びるのも泣き叫んで怖がった。

風呂に入らないわけにはいかないので徐々にシャワーには慣れていったけれど、湯船に浸かるのはずっと怖かった。水が体にまとわりつく感覚がダメだったのだ。

だから水に潜るなんて、考えただけで頭がくらくらした。小学校に入って水泳の授業があると知ったとき、僕は仮病を使って何度も休んだ。さすがにずっとは休めないので、たまには授業に参加しなければならない。

そのとき、僕はいつも真っ赤な水泳帽子を、真っ赤な顔して被っていた。友達がどんどん白帽子になり深いプールに移っていくのを、僕は浅いプールにとどまったまま眺めていた。

あっちが海なら、こっちは浅い水たまり。パシャパシャやっているのが恥ずかしくて、ますます水が嫌いになった。

そんなある日、たしか父だった、父が僕を水族館に連れて行ってくれたのだ。

そこで僕は、青い青い世界を悠々と進む”灰色の三日月”に出会ってしまった。

「イルカは水の中にいるけれど、魚じゃなくて、僕たちと同じ哺乳類なんだよ」

そう言う父の言葉が、僕には到底信じられなかった。イルカは頭の近くにある鼻の穴から空気を吸い、息を止めて潜り、泳いでいるのだという。まったく僕らと同じじゃないか。

さらに父は、イルカの先祖は陸に住んでいたけれど、再び海で生活するようになったんだよと話してくれた。どうしてわざわざ、こんな過ごしにくい水の中に戻ったんだろう。それを父に言うと、「どうしてだろうね。でも人間も、もともと海から生まれたからね」と返ってきた。

初めて見たイルカの体は、とにかく美しかった。尾びれを力強くしならせて、ぐいぐい青いプールを泳いでいる。気がつけば僕は、ぶ厚い水槽のガラスに鼻をつけ、じっとイルカを見つめていた。

あの肌にまとわりつくいやったらしい水の中を、イルカはすいすいと進んでいく。表情なんて分からないけれど、その体は「水の中は楽しい!」と雄弁に語っていた。

それからというもの、目を閉じればいつだって、青い水の世界が広がるようになった。

僕の学校は4年生になると、部活動に入る決まりがある。部活のかけ持ちが許されている学校もあるけれど、僕のところは一度選べば卒業まで、その部一筋に打ち込まなければならない。辞めることもなかなかできない、暗黙の空気みたいのがある。

どうしてこんなシステムがあるんだろうと思うけど、そういうルールになっているからしょうがない。野球部、サッカー部、合唱部……せっかく3年間続けるのだから何に入ろうか。入部届を書く前に渡された部活リストとにらめっこしていたら、目が勝手に「水泳部」という文字に吸い込まれた。

水泳の授業はだいたい、暑くなってきた6月の終わりから夏休み前の7月まである。けれど水泳部員になれば、早くて5月に水に入り、9月の終わりまでプールで泳ぐことができる。卒業までの3年間、学校中の生徒の中で最も水と触れ合っているのが、水泳部員なのだ。

シーズン中は、授業が終わればほぼ毎日のように水に入る。そんなの、水が大嫌いな僕にとっては拷問のような日々だということはたやすく予想できた。

しかし目は「水泳部」から離れない。

脳裏に、青い世界が広がる。

入部前には雰囲気を知るために、学校中の部活を見学して回ることができる。とにかくまずは水泳部を見てみようと、僕は見学することにした。授業以外にプールサイドに立ち入ったのは、部活見学が初めてだった。

水泳部員はみんな白い帽子を被っていて、レーンに分かれ、キラキラとした水しぶきをあげながら泳いでいた。

端から端まで25メートル。速い人はそれを15秒ほどで泳ぎ切る。クロール、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ。彼らは、まるで水の中でも息ができているのではないかと思うくらい、自由自在に泳いでいた。僕と同じ生徒なのに、魚みたいだと思った。

瞬間。ひとつのレーンで、黒いシルエットが音もなく水に吸い込まれていく。

ハッとして目をやると、水着姿の少女が飛び込み、あっという間に25メートルを泳ぎ切っていた。

そのレーンではタイム測定をしているようだった。短いホイッスルの音とともに次々と部員がプールに飛び込んでいく。学校のプールで、水泳部だけが「飛び込み」を許されている。授業だけでは水に触れる時間が短いので、一般生徒には禁止されているのだ。

青いプールに三日月のような弧を描いて、部員たちの体が水へと消えていく。その姿に、僕はイルカを重ねていた。

飛び込みがしたい。

水しぶきに目を奪われたまま、僕は急かされるように思った。

飛び込みがしたい。

あのイルカのように、青い世界に吸い込まれてみたい。

気づいたら、入部届に「水泳部」と書いていた。

それからというもの、僕は毎日のようにプールに行くようになった。泳げなかった僕はプールで苦しむ度に、あの「灰色の三日月」を思い浮かべた。

イルカたちが知る「楽しい水の世界」を、切実に感じてみたかった。早く「飛び込み」がしたかった。

そして今日、僕は初めて飛び込み台に立つ。赤い帽子はとっくの昔に押し入れに閉まって、今は白い帽子を被っている。水が大嫌いで泳げなかった僕が、この青い小さな海の前に立てるようになるなんて、誰が想像できただろうか。期待と緊張にざわつく僕の心とは裏腹に、プールは静かに凪いで、待ち構えている。

太陽の光が網のように輝いている。水面に僕の影が落ちる。

あのイルカを思い浮かべ、僕は地面を蹴って、

海へ還る。

written by

萩原郁実

1995年生、愛知県岡崎市在住。南山大学在学中。2018年3月から、フリーでライター・イラストレーターを始める。株 式会社IDENTITIY名古屋でインターン(現在)などをし、経験を積み中。イラスト業は主にSNS経由で個人~企業の依 頼を受ける。趣味は街歩き、和菓子巡り、登山、ランニング、ペットのインコと遊ぶこと。

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