「プリクラ、撮りに行こうよ」

essay, Sep. 2019

田村悠貴

「プリクラ撮りに行こうよ!」

この一言が、”友達”のはじまりだった。高校生だった私たちは毎日、ゲームセンターに通っていた。田舎のスーパーの最上階にある、冴えないゲームセンター。放課後や塾が始まる前に、みんなで集まってプリクラを撮る。

まるで、自分たちの友情を証明写真として残しておくかのように。

プリクラへの誘いは、返事を迷うことも多かった。特に、同じグループじゃない子に誘われたときは。

──なんて答えるのが正解なんだろう。いいね、と言った方がいいのはわかってるけど、この子は親友が好きじゃない子だし、私が一緒にプリクラを撮ったことを知ったら、親友との友情にヒビが入るかも。

親友への裏切りのように感じながら、でも断る勇気なんてなくて、メールで必死に事情を伝えてから、結局その子とプリクラを撮りに行った。

その日ふたりで撮ったプリクラは同じ枚数ずつ分けて、翌日、プリクラを交換し合っている友達に配った。「あの子にはあげてるのに私はもらってない」なんてことがあると、その子とは友達じゃなくなってしまうから、配るのを忘れないようにする。土日明けの教室ではみんなプリクラの交換をしていて、私は渡し漏れがないか、いつもドキドキしていた。

「悠貴ちゃんにはプリクラあげるけど、あっちの子にはあげてないから。バレないように、プリ帳には貼らないでね」

そんな“注意事項”もたくさんあった。撮ったプリクラをあげる・あげないが原因で、友情にヒビが入ることがあるから、「プリクラを貰ったこと」を秘密にしないといけないこともあった。プリ帳を見せるときは、“何か”勘付かれないか、いつも手に汗が滲んだ。

「暗黙のルール」を読み取る力は、きっとこの時期に形成されたに違いない。

もらったプリクラを貼る「プリ帳」は、ポスカのカラーペンで描かれた、派手な表紙が目印だった。人それぞれ表紙の感じが違っていて、個性がにじみ出ていた。みんながプリクラに夢中になる中で、どこか自分らしさを出そうと必死だったのかも。

思い返せば、プリクラだけじゃない。

スカートを他の子より何センチかだけ短くする。黒じゃなくて茶色のローファーを履く。イーストボーイではなく他のブランドや変わった色のカーディガンを着る。部活の先輩からもらった体操着を着る。好きな先輩からもらった第二ボタンを、密かに名札に付ける。

たぶん、なんでもよかったんだと思う。みんなが同じ制服を着て、同じようにプリクラを撮る中、ともかく個性を出さないと埋もれてしまいそうで、私は怖かった。誰かと違う、自分だけの自分でいたかった。

本当は、撮りたくない人とのプリクラを断りたかった。でも、その子に白い目で見られるのも怖かった。みんなと同じ自分でいたくて、上手く立ち振舞える自分でいたくて、でも「同じ」というだけの自分も嫌で。

背中に冷や汗が流れるのを感じながら、学校で上手く泳ぐ方法を、いつも探していた。

今になって、実家でぱらぱらプリ帳をめくっていると、なぜか目に留まるものがある。

本当に楽しくて撮ったプリクラ。本当は撮りたくなかったけど頑張って笑顔をつくったプリクラ。もう二度と見たくない、元彼とのプリクラ。

過去のプリクラを見ていると、自然と今の自分のことを考えてしまう。

10年以上経った今だって、同じように何かからこぼれ落ちないように、でもまわりに埋もれないように、葛藤しながらようやく毎日をやり過ごしている。

でも、ふとわからなくなることがある。

「何か」とか「まわり」って、なんだっけ。

プリ帳は、いつもイーストボーイのスクールバッグに入れて持ち歩いてたから、ページのあちこちに飲み物が溢れて黄色いシミができている。でも、大人になった今でも、どうしても捨てられない。

嫌が応にも色褪せてくれない、プリクラ一枚一枚に染み付いた記憶を啜る。たくさんの擦り傷をこしらえながら、小さな社会で必死で戦った、私のスクールデイズ。

でも、あの日々があったから、今私は、目の前の高い壁だって超えていけるんだ。

どの一枚も、もう二度と訪れない、過去の記憶が刻まれていて。

苦くて愛おしい、正真正銘、私だけの青春だった。

written by

田村悠貴

思春期を拗らせて心理学にのめり込んだ後、広告制作会社のディレクターに。三十路手前でアート業界に転職する。東京 の下町で質素倹約な生活をしつつ、自然を求めてすぐ実家に帰る。日々を淡々と切り取りながらも、感情が見え隠れするような文章になるよう心がけている。

related stories

fiction, Sep. 2019

萩原郁実

学校に、海がある。

fiction, Sep. 2019

koala

全員主役