
熟れゆく夏
essay, Aug. 2019
花火大会、夏祭り。夏フェスにビーチにプール。
夏は一年のうちで一番華のある、文字通り眩しい季節。
とはいえ、私はそんな夏を一向に楽しめていない。学生時代はまだ、デートで花火大会に行ったり、サークルのみんなで一晩中歩いて夜明けの空を見たり、ディズニーランドのアフター6に行ったりといかにもな夏を送ってきたけれど、ここ数年はすっかり夏バテで引きこもってばかりいる。
連日30度以上は当たり前で、台風や大雨といった災害にも気をつけなきゃいけない。
昼につくったもやしスープの鍋をコンロにそのままにしておいたら、夜には腐っていた。ものすごいスピードで食べ物がダメになっていくなあ。
口に出したくないあの害虫や、蚊やその他どれだけ家を密室にしていても入ってくる小さな虫や蜘蛛にもひやひやさせられる。暑さで食欲はなくなり、イライラし、ゆっくりと、しかし確実に疲労が身体に溜まってゆく。
夏は私にとって、最も苦手で嫌いで過酷な季節だ。
とはいえ、今年は妊婦として夏を迎えたので、体重管理と体力維持のために毎日日没前30分ほどをウォーキングに当てている。さすがにその時間になると、暑さは少し勢いを失っている。だんだん暗くなってくる道を歩いていると、コンクリートまみれの都会なのに、蝉の鳴き声をそこかしこで耳にする。一日屋内にいては感じられない、夏の息吹を感じる瞬間。
夏は一年のうちでもっとも、生命力を感じる季節だ。そんなときいつも私は、大好きなジブリの映画『風立ちぬ』を思い出す。夏の映画というわけではないけれど、真夏の青い空、白い入道雲、そして青々とした草原を風がさっと通りすぎ、草いきれのにおいを画面の向こうから感じるとき、「生きる」ということを痛烈に思い出す映画だ。
夕暮れ時、蝉の鳴き声を聞きながら私は、やがてこの鳴き声が「カナカナカナカナ…」というひぐらしの鳴き声や、「リーリー」いった鈴虫の鳴き声に取って変わられることを知っている。早くそうなってほしいと思いつつ、どこかでこの蝉の鳴き声を惜しんでいる自分もいる。
夏が終われば秋が来て、やがてそれは冬になり、今年も一年が終わる。それは紛れもないひとつの「終わり」であり、どこか寂しいような物悲しいような、そんなノスタルジックな気分に身体を浸らせる。
私はそんなノスタルジーを、夏が小さく終わってゆく日々の夏の夜に、日が沈んでゆくこの時間のこの散歩に、感じていて。
「夏が早く終わればいい」と、毎日呪いのように呟きながら、同時に私は、「夏が終わってほしくない」と、心のどこかでは思っている。
夏は常に、「終わり」と隣り合わせだ。あらゆる生命がその命を爆発させるとき、同時にそれらは「終わり」──死──に向けて、ものすごいスピードで向かってゆく。首を垂れる果実は熟れて腐ってゆき、蝉は7日間だけ懸命に鳴いて地面の上に転がる。
「終わり」を感じさせるからこそ、その生命力はよりいっそう力強く、夏の太陽の下で輝くのだと思う。
夏、特に日々小さく「夏」が死んでゆく真夏の夕暮れ時はだから、私にとって生と死を、コインの裏表のようにくっついて離れないその密接さを、ありありと感じる時間なのだ。

written by
SAKI.S
生まれたときから足に筋肉の筋が入っており将来はオリンピック選手かと渇望される。
小5のとき徒競走"Queen of the Queen"で優勝し、見事井の中の蛙と化す。
現在、自宅と実家の往復(400m)のみでその筋肉を使い、”猫に小判、Queenに筋(KIN)”と揶揄される。好きな食べ物はクッキー。
mono.coto Japan編集長/泊まれる自宅本屋 books1016。兵庫県加古川市出身、小中高を中国、アメリカなどで過ごす。
twitter: @monocoto_japan